子どもの権利の父、コルチャック先生を知っていますか。
ヤヌシュ・コルチャックは、1878年生まれのユダヤ系ポーランド人で、小児科医、児童文学作家でもあり、「子どもの権利」という概念の先駆者となった偉人です。
ユダヤ人孤児のための孤児院の院長となり、子ども研究、仲間裁判など先駆的な取組をしました。
「子どもはすでに人間である」は、コルチャック先生の基本的な教育概念であり、最も重要なテーゼです。
「子どもはだんだんと人間になるのではなく、すでに人間である。そう、人間なのであって操り人形なのではない。彼らの理性に向かって話しかければ、我々のそれに応えることもできるし、心に向かって話しかければ、我々を感じ取ってもくれる。子どもは、その魂において、我々がもっているところのあらゆる思考や感覚を持つ才能ある人間なのである」(19世紀隣人愛思想の発展)
コルチャック先生が子どもの権利として掲げた3つの柱として、「死についての子どもの権利」、「今日という日についての子どもの権利」、「あるがままである権利」があります。これらの概念は、1989年に採択された「子どもの権利条約」にも受け継がれています。
1939年ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発しました。ユダヤ人に対する迫害が激化し、コルチャック先生の孤児院でも、教師や子どもたちがゲットーへ移住させられることとなりました。そして、1942年、孤児院の子どもたちがトレブリンカ強制収容所に移送されて殺害されることになります。このとき、駅の積換場までの道のりを、コルチャック先生が200人の子どもたちを先導し行進しました。コルチャック先生は、助かる方法があったにもかかわらず、自分だけが助かることを拒否して、子どもたちと一緒に、収容所行きの列車に乗ったのです。有名な「最後の行進」伝説です。
このときの様子をゲットーの詩人といわれたヴディスワフ・シュレンゲルは次のように記しています。
「今日、私はヤヌシュ・コルチャックを見た。彼は、子どもたちと最後の行進をしているかのようだった、子どもたちは、きれいな服装で、庭の中を散策しているときのような服装だった。彼らは祝祭のときのきれいなエプロンを身につけていた。
(中略)
子どもたちは、落ち着いていた。だれもけっして列からはずれなかった。孤児たちは、立ち止まることもなく前にぶつかるものもいなかった。濃青色の仲間は共にあった。広場で介入するものはなかったし、誰1人SSに耳もとで話させることもなかった。そして誰1人酔っ払ったラトビア兵のために家族の時計を集めることもなかった。
ヤヌシュ・コルチャックはまっすぐ前に向かって歩いた。帽子もかぶらず、その目に不安を浮かべることもなく、ポケットは子どもがそこにつかまれるようにして。脇に彼らを包み両手でもって抱えるようにして。
誰かが飛び込んできた、紙切れを手にしていた。
何かしら説明し大声で叫んだ。「あなたは戻ってよい・・・・・・これは司令部Brandtからの証書です」
コルチャックは黙って首を横に振った。
ほとんど何も説明されなかった。それがドイツからの特赦だということが。
しかしそれがいかに無神経なものか、特赦は、自身が子どもを置き去りにすることを意味した。長い間、彼はその長旅に耐えてきた。子どもたちが太陽を抱えられるようにしてきた。こんなふうにしてきたのになぜ怯える子どもたちを置き去りにできるというのか、
彼らと共に行く、・・・さらにこの先も・・・最後まで。」
日本は、1994年に子どもの権利条約に批准しましたが、現代の日本でもまだ子どもの権利が十分に浸透しているとはいえません。子どもの権利は、極めて現代的な課題であり、今後さらに注目されていくことでしょう。
このような子どもの権利の原型が、第一次大戦前の1人のポーランド人に発祥していることは、驚くべきことと言わざるを得ません。すごい人です。
離婚事件では、子どもが必ずと言っていいほど傷つきます。両親が必死で喧嘩する姿を見て傷つかない子どもはいません。どうしても離婚が避けられないとしても、子どもの福祉を尊重し、できるだけ子どもがダメージを受けない形で離婚を成立させたいものですね。
2021年2月12日
「コルチャックと「子どもの権利」の源流」(塚本智宏、子どもの未来社)より一部抜粋
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